父と母の思い出

私はもうしばらくすれば、人生の終盤に差しかかる年齢になりますので、自分を育ててくれた父と母のことを思い出し、あれこれ考えを巡らせることが多くなりました。
だからと言って、なぜ両親のことを話そうと考えたかは、最後にお話しすることとしまして、早速本題に入らせていただきます。
大まかな内容は、私から見た、父と母が元気だった頃の、良い面ばかりの思い出です。
訳あって、自分も含めてですが、悪い話?は、ゴミ箱行きにしました。そのため、ちゃんとし過ぎている風?かも知れませんが、そこはご容赦くださいませ💦
大変長文かつ拙い文章で恐縮ですが、ご一読いただけましたら幸いです。
目次(クリックによるジャンプも可能)
Dad memory
日本テレビアナウンサーだった父の人物像とエピソードなど(約3200字)
Mom memory
製薬会社社長だった母の人柄と一緒に仕事をしてきた思い出など(約2800字)
Conclusion
二人の思い出を纏めた訳と結びの言葉(約1200字)
Dad memory

私の父、清水一郎はもう30年近く前に、今では若くしてと言われる年齢で亡くなりました。
父は元日本テレビのアナウンサーで、プロレス実況の草分けとして活躍をしました。
戦後の日本に、新しい格闘技興行「プロレス」が誕生します。
昭和の象徴であった街頭テレビには、日本のヒーロー、力道山が映し出され、当時、国民的人気を博しました。
その後のテレビの普及と共に、ジャイアント馬場やアントニオ猪木といった新しいヒーローが生まれ、プロレス中継は、常に注目を集めるテレビ番組になります。
この実況放送を父が担当していました。(力道山の試合も父が実況しているものがありますが、それは後になって父が実況を録音したものだと父が話していたのを記憶しています)
当時のプロレス中継は、国内試合に加え、海外遠征もあり、父は実況アナとして同行し、その試合は日本で放映されていました。
もちろん他にも、普通のニュース番組やクイズ番組の司会、特番(昭和34年皇太子殿下御成婚パレード、昭和39年東京リンピック水泳競技中継など)、ナレーション、CMアフレコ、結婚式司会などもやっていましたので、家で一緒に過ごす時間はごく僅かでした。
私の記憶にはない、もっと前のエピソードとしましては、母が幼児の頃の兄と私をあやす時、いわゆる赤ちゃん言葉を使うことは、家庭内で禁止だったそうです。父はアナウンサーとして、赤ちゃん言葉を耳に入れたくなかったため、父からお願いをされたと母が話していました。
昭和の社会風潮もあるでしょうが、レスラーの方々やその関係者との付き合いは、かなり濃かったと思います。
よく覚えているのは、私が小学二年生ぐらいのとある日曜日、普通に家に居ると、ジャイアント馬場さんと大木金太郎さんが突然遊びにいらっしゃったことです。
母が急いで寿司の出前をとり、ビールを次から次へと運んでいた光景が思い出されます。
どちらの方だったかは忘れましたが、ビールの大瓶を栓抜きを使わずに指で開けていました。
兄と一緒に30cmの物差しを持ってこっそり玄関に行き、馬場さんの靴のサイズを測ったところ、その物差しを余裕で超えていたため、子供ながらに息を飲み、たじたじしたことも覚えています。

父は当時レフェリーとして有名だったユセフ・トルコさんとも親しかったようで、トルコさんから頂いた、とても洒落たタキシードのカマーバンドなどを愛用していました。
また父は初期のDouble-O-Sevenが好きだったからでしょう、そういった趣のある、本革アタッシュケース、スーツ、カフス、腕時計を好んで身に付けていました。
寡黙な父でしたので、家で仕事の話は殆どしませんでしたが、海外遠征から帰ってきた時に、「あの彼は(悪役アメリカ人レスラー)、すごく親切なナイスガイだった。ずっと現地を車で案内してくれたんだぞ!」などと話してくれました。
また「プロレスは熱いものだから、実況はクールにいった方がいいんだ」とか、これはわかる人にはわかると思いますが、「力道山が対戦相手に迫り出していくとき、すごく色気があるんだ」など、グッとくる話もしていました。
ある休日の午後、父がちょっと一緒に行こうと言い、二人で車に乗り、大きなファミレスのような場所に行きました。
そこで待っていたのは、父よりも年上の大変に迫力のある男性でした。
私はこれは明らかに只者ではないと感じ、静かにしていましたが、その方は自分で持ってきているノンシュガー甘味料をパンにたっぷりかけながら、気さくに私に話しかけて下さいました。
また何より父と会っていることを嬉しそうにしていました。
この男性は、古いプロレスに詳しい方なら分かると思いますが、力道山関連の重要な人物として有名なYさんでした。情に厚く、大変血気盛んな方です。
お店を後にし、三人で車に乗り、Yさんが経営するレンタカー会社に着いたところ、その空き地で、社員が古タイヤをドラム缶で燃やしている光景が目に入りました。それを見たYさんは激怒し、社員をすごい迫力で怒鳴り散らしています。この間、父は全く平静でいましたし、私も何とか静かにそれを見守りました。
再び車に乗った三人は、二子玉川の河川敷に向かいました。そこで偶然、凧揚げをしている人がいて、その凧が見えなくなるほど高く上がっているのを見たYさんは、子供のようにはしゃぎ出します。
そして凧揚げをしている人に自分にもやらせて欲しいと頼み込み、結局、Yさんと父と私の三人で凧揚げをしました。
もう皆で河川敷を興奮して走り回りながら。
それが終わると、渋谷のたしか邱永漢氏がオーナーの中華料理屋に三人で行き、円卓を囲んで、多くの品数を食べ出すのですが、必死に食べている私にYさんは「その酢豚は美味いか?」と尋ね、「うん!」と答えるとすぐに店の人を呼び、「この酢豚をあと二つ!」と注文します。
その後も他の料理を同じように二つ追加していきます。
私も必死で食べましたが、「もう無理です!」と言ったことをよく覚えています。
大人の遊びとはこういうものかと、強く私に刻まれた日でした。
その後父から聞いた、数々のYさんの武勇伝は、今も忘れられません。
あの時、私のことを気に入り、優しく楽しく接していただいたことを思い出すと、改めてお礼を言いたくなります。
とても印象深い良い方でした。
父は私同様、東京生まれ東京育ちですが、太平洋戦争時に、都市部の子供達を守るために行われた学童疎開を経験しています。
疎開先は新潟県の越後湯沢で、縁故を頼った疎開ではなく集団疎開でした。子供同士でさぞや苦労も多かったことと思います。
そして、私のこの記憶は不確か且つ断片的で、夢の中で起きたことのようなのですが、おそらく小学3年生ぐらいの時、疎開先だった越後湯沢に行くから一緒に行こうと父から言われ、行った記憶があります。
当時疎開をしていた人達が数十年を経て集まったのでしょう。
大きな温泉旅館に宿泊をし、大勢の方達が居たことを覚えていますが、私はひどく楽しくなく、部屋で寝てしまいました。
夜になって目を覚ますと一人であることが不安になり、部屋を出て大きな旅館を彷徨い歩き、父を探しました。
賑やかな声が聞こえる部屋に辿り着いて、そっと襖を開けると、何十人もいる座敷席の真ん中辺りに父が座り、皆かなり酔っているようです。
父を含め殆どの方が襖を開けた私を見つけ、何か言っています。そして父が「あれが次男なんだ」と皆さんに言っていた気がします。
話の中心的存在は父のようで、皆、父と話たがっているようでした。私はその雰囲気を察知し、無言で襖をそっと閉め、部屋に戻って再び一人眠りにつきました。
あの時の父の表情は本当に嬉しそうでした。
私は、この旅行は何も楽しくはなかったけど、役割だけはきっちり果たしたみたいだと、安堵したことを覚えています。
父が亡くなってから、テレビに徳光和夫さんと古舘伊知郎さんがご一緒に出演し、トークをされる番組があると、有難いことにお二人は、必ずと言っていいほど父の話題を出して下さいます。
そして、不思議なことに、私は日頃からそういった番組を事前にチェックしているわけでは無いのですが、なぜか偶然にその番組のオンエアを見ています。
何年かおきに三度もこのようなことがありました。
もう随分前になりますが、ある年、日本テレビの社屋前に当時の街頭テレビを設置し、プロレス中継を放映するというイベントがあり、もしやと思い見にいったことがあります。
街頭テレビを見るなり、映し出されているプロレス中継の実況は父なのがすぐわかりました。
はじめて客観視してそれを聞いていましたが、『普通に留まっていながら独自性を出し、上手いな!』と感じました。
音楽でも何でもこのことは、表現をした結果では、理想の状態だと思います。
これならば父は、当時のたくさんのプロレスファンの方達から、熱い支持を受けていたはずと確信し、心の中で拍手を送りました。
Mom memory

私の母、清水禮子は記憶に新しい昨年に他界をしました。
母の若い頃の印象は、活発で目立つタイプだったと思います。たしか私が幼稚園ぐらいの時、自宅に泥棒が入ろうとしたことがありましたが、母が大声で人を呼び集め、泥棒はすぐに逮捕され、母は感謝状をいただいたことがありました。
そんな母の父親というのは、元々は写真家でしたが、その後、旅館やホテルの経営者となった人でした。母のことを、誰よりも自分をわかってくれる人として、頼りにしていたため、様々な場所によく二人で顔を出していました。
この二人は、感覚的に似通った部分が多かったのですが、母もやはり若い頃からいろいろな商売をするようになりました。
そのため、私の母に対する子供の頃の思い出は、一緒に遊んだというよりも、仕事場に連れて行ってもらったという印象が強くあります。
その中でも一番古い記憶は、母がホテル内にあるアクセサリー売り場の仕事をしていた頃のものです。
私は母に連れられてホテルに赴き、アクセサリーの飾り付けなどの仕事が終わるのをじっと待っていました。
仕事が終わると、何か食べようと言われ、ホテルのレストランで、蟹クリームクレープ包みのような料理と、バジリコパスタを生まれて初めて食べさせてもらいました。
これは大変に美味しく、その後も私はホテルに同行する度に、薄暗い中、母の仕事が終わるまで、辛抱強く待ち続けました。
また母のことでよく思い出すことといえば、私が小学生の時、これは出来るようにしておいた方がいいと、母は私に針と糸の扱い方を教えてくれました。まだ学校での裁縫がはじまる前だったと思います。
元々何かを作ることが好きだった私は、サイズが小さくなった自分のデニム(たしかBIG JOHN)を裁断して、ショルダーバッグを作りたいと思いました。
夢中になって裁ち鋏と針を動かし続け、何回も針で自分の指を刺し、半日がかりでやっと出来た時には、いつも寝なければいけない時間を遥かに過ぎていたんだと思います。
明日学校に行くためには早起きしなければならないのに、その完成品はもちろんたいしたものでもなく、自分自身疲れ切っていたため、「無意味なことをしてしまった」と言葉を漏らすと、母が「そんなことはない!それを作ったんじゃない!」と言ってくれたのは、私のその後の人生に大きな影響がありました。またそれは、今でも続いていると思います。
私が中学生の時に、学校の音楽の授業でソルフェージュがありました。
私はこれが嫌いかつ苦手で、仕方なく母に、ちょっと練習をするから手伝ってほしいと頼みました。
母はピアノを前にし、譜面を見ながら歌ってくれるのですが、しばらく聞いていると、もう完全に母が自分の世界に入り、楽しそうになっています。
嫌いに拍車がかかるようでしたが、私の苦手は一向に克服できないため、この練習を断続的に続けました。
いつもそのモードに入ってしまう母、これは合わせ鏡で自分も全く同じだと思いますので、私は人に何かを教えたりすることはしない方がいいと思っています。
ある時期、母は小ぶりながら閑静な旅館の経営をしていました。
私は、この仕事は母が旅館経営をしていた祖父の関係でやり出したことだろうと、長年思っておりましたが、後になり、実は祖父には黙ってなんの助けも借りず、一から全てを自分で交渉し、様々な手配も行い、スタートさせたことだと知りました。
この話を母から聞いている時は、ふ~んと言いながら聞いていましたが、内心とても驚いたことをよく覚えています。
また、この旅館の支配人の女性に不幸があった時、確か身寄りがなかったため、母がいろいろなことをやってあげたようで、今でも母は立派なことをしたと思っています。
母が仕事として最後にやっていたことは、小さいながらも工場を持つ製薬会社の経営と、その関連クリニックの経営でした。
母のこの会社への思い入れはとても強く、自ら起業した際に、自分の母親の名前を社名としていました。
小規模ではありましたが、きちんと許認可を取得した製薬会社ですので、医薬品の商品を製造販売していましたが、メインは健康食品と化粧品の会社です。
母はこの会社の社長業を約30年続けました。もちろん母は、医師や薬剤師ではありませんが、商才があったため、このような業種での経営を成立させていました。
また私も、この会社に勤め、一から全てを学び、必死で仕事をしていました。
一緒に仕事をしていて、これは皆ができる事ではないだろうと感じた点は、母は会社維持に必要な利益を生むアイデアを、自ら考え出していたことが挙げられます。
それは、商品開発や営業展開などの重要なことだけではなく、ほんの些細なアイデアも含めてですが、それらを考え出し続けていくことは、自分には到底出来ないことでした。
また機嫌を損ねている複雑な人間関係を上手く収め、崩壊させないようにすることにも長けていて、そこまでもっていける忍耐力にも驚きました。
今でこそ女性の社長は、沢山の方がいらっしゃいますが、あの年代では風当たりが強く、辛いことも多かったと思います。長年、社長業を頑張ってやり続けていたことには頭が下がります。
また当然のことながら、医師や薬剤師の先生方、そしてエビデンスのために学会発表が必要ですので、専門性の高い先生方など、元来母の人生とは縁遠い方々とのコミュニケーションに積極的な姿は、私にとって大変勉強になりました。
母は人情味とノリの良さがある人でしたので、そういった先生方をはじめ、看護師の皆様、会社関連の皆様からもよく好かれていたと思います。
この会社も、今はもうありませんが、この時代の母が、人生の中で一番生き生きしていたと思います。
この時代の私で、最も楽しかったことは何だったかを回想しますと、少人数ではありましたが、一度だけ社員旅行に行ったことが浮かんできます。
場所は、商品の原料確保で縁のあった、沖縄県の久高島でした。
ここは、ノロ(神女組織)や男子禁制の聖地をはじめ、自然と一体の、非常に神聖な精神が今なお残されている素晴らしい島です。

以前にも島を訪れていた母は、琉球謡の家元である「久高の酋長」西銘徳夫さんと私を引き合わせてくれました。
夜の宴では、西銘さんの歌と三線に合わせ、私が持参していたフレームドラムでコラボもさせていただきました。
久高島は、島全体が癒し効果のある場所であり、それを実際に体感できたことは、私にとって本当に有り難かった思い出です。
こうして振り返ると、私は母によって様々な経験をさせていただいたと再認識します。
また私は、大学在学中の十代終わり頃、ドラマーとしてお金を稼ぐようになり、卒業後は(私は両親と同じ青山学院大学卒です)ミュージシャンの道に入っていきましたが、そのチャレンジングと言える進路に何の文句もなく、むしろこうした方が良いと、協力的だった母のことが思い出され、心から感謝しなければならない人だったと痛感いたします。
Conclusion
長々と両親のことを話してきましたが、私がなぜこれを纏めたかというと、決して親自慢をしたいとか、親孝行ぶりを見せたいと思ったわけではありません。
私は、様々な方のお世話になりながら、昨年、母を看取りましたが、そこに至るまでの介護は、想像を超えるものがありました。
母は仕事上でもプライベートでも、大変しっかりしたタイプの人でしたが、元気だった頃から、心に傷のようなものがあり、それが痛むと、私もどうしていいのか分からなくなることがありました。
臨終のひと月前ぐらいからは、私自身も健康を崩し、病院通いと落胆の日々が続きます。
もちろん、やらなければならない事は、症状に耐えつつやりますが、妻に多大な迷惑をかけることにもなりました。
そして、今までずっと頑張り続けたのに、こんなことになってしまうのは、父のせいもあるだろう、いったい自分の両親はなんだったんだろうか、本当は好き放題やっていた勝手な人達だったのではないかと、否定的な感情が湧き、結果、自分の活力を益々失いました。
その後体調は少しずつ良くなっていきましたが(近年に学会発表され、まだ治療方法が確立していない病いだそうで、放っておくことにしました)、心の中にある、もやもやとしたものを、何とかしなければと思う日々が続いていきます。
今はジャーナリングという、日記よりも考えずに、感じたままのことを全てノートに書き出していき、心を整えていく術がありますが、私の場合は、このやり方は適していないと思いました。
ある時、ジャーナリングではなく、いっそ公表するものだったら、亡くなった人達を悪くも言えないため、マイナーな感情をマスキングして表現していくだろうし、もしかしたら自ずと昇華されていくのではと思い、これを纏めていく作業を開始しました。
ゆっくり昔の事を思い出しながら、不特定な方に読んでいただけるよう、纏め続けた結果、良い効果が本当にありました。
私的で、非常にたわいないものではありますが、いろいろな出来事を回想していくと、気持ちは整理され、今では、自分はあまりにもいたらない子供であったという反省と、新たな両親への感謝の念を抱くようになりました。
これをもしご一読くださいました方が、内容によっては、何かで落胆したり、傷ついたりすることが起きませんよう、むしろ何かのヒントになりますよう、心から願っています。
ここには載せなかったことを含めた、私の少年の頃の思い出は、大人の言うことを友達より深く理解しようとする、ませた少年の自分へ、いつも勇敢な気持ちを持って少し遠くを見ている自分の目線へ、私を立ち戻らせてくれたかのようでした。
父が壇上で、マイク片手に何かをアナウンスし、最後にお辞儀をして終える時、「この言葉で締めると、キマるんだ」と好んでいた言葉があります。
その言葉で結びたいと思います。
私のような者が書いた文章にお付き合いいただき、心より感謝申し上げます。
最後までお読みいただき
「ありがとう存じました!」
清水永ニ

